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| ◎鹿町町方言集◎ |
| 鹿町町の生いたち |
| 自治行政の芽生え
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| 明治11年7月郡区町村編成法制定さる。大区、小区の制を廃し、県、郡、町村を行政上の一単位とした。 この郡区町村編成による郡は、行政区画であって、自治体的性格を持つものではなかった。明治23年になって、府県制とともに郡制が制定され郡に自治体的性格が与えられた。 「大正12年に郡制が廃止され現在行政区画としての名称だけは残っている」明治12年に戸長選挙規則が出来て戸長は公選上知事の認可制とした。 鹿町では同12年公選で坂本 清太郎が戸長に選ばれ戸長役場を鹿町免蔵置場の同氏方に置いた。 外に筆生と呼ばれた書記は、深江 玉石、松本 兵市の2名であった。 明治16年役場を元触と呼ばれていた鹿町免山川890番地(鎌倉神上南上側の旧庄屋宅に移転した。 |
| 自治行政の成長
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| 明治22年4月市制及び町村制が新しく施行され、規定に従って村長、議員の公選が行われ村長に坂本 清太郎が選ばれ以後34年4月まで就任し、12年の期間明治の多難な時代を村行政に尽くされた。 村会議員も第一回の公選が同時に行われた場所は船ノ村潮音院であり、12名の議員を選出し、議員は二級制で任期は6ヶ年であった。第一回の村会も同所にて開かれた。 |
| 村役場を歌ヶ浦へ移転 |
| 明治22年公選村長誕生と共に着板も鹿町村役場と書き替えられた。 当時の役場は南向きの草葺平屋建の十坪位の建物で入口を入ると長い、カウンターがあり事務室には村長、助役(収入役兼務)書記1名が、人待ち顔で事務をとっていた。 この様に一応近代的な自治制度の形は整ってきたものの、完全な自治行政とはいい難かったが、永い封建制から脱却しつつある画期的な改革というべきであろう。 明治38年村役場を、庄屋跡の場所より歌ヶ浦(字大坂527番)に移転した。 鹿町の地形的な問題が原因ではあるが部落意識が強かった、当時の民度から考えて非常な重大難事だったろう。 ちなみに当時の村長の給料は
村長、助役には他に費用弁償として、十二円九十六銭と、助役九円三十六銭が支給されている。 米一俵(当時は三斗二升入)が一円内外、酒一升が十二銭位だった。村会に出された移転反対の建議書を見ても当時の模様が大体想像される。 歌ヶ浦の役場としてあてられたのは、明治10年ころ建てられた民家(山崎 信吉)所有のもので、これも鹿町側から移転して来た、鹿鳴小学校の校舎に使用するため十三年に村が買い取ったものである 明治37年4月小学校を現在地に移したので、あとを役場庁舎に転用したものであった。元の庁舎の十坪余りに対し、二階建て八十余坪の建物は、大き過ぎると反対理由の一つにあげられたが、その後幾度かの増修築が行われた。しかし永年の老朽化に新庁舎建設の必要にせまられ、昭和33年議会の議決を得て、新庁舎の建設にかかった。
明治5年の春、鹿町の庄屋敷を役場としてからここに80年、旧い民家ばかり使って、二度も移転して間に合せた役場庁舎も、初めて、当時としては近隣に比を見ない近代的な建築が見事誕生したのである。 明治政府が近代国家としての出発にあたり次々と行った改革の中で最も特筆すべきものは、先ず、国民皆兵の徴兵制と地租改革であろう。 藩政時代の年貢米貢祖で完納させる為には村全体の、共同責任制まで負わされていたが新税は、土地所有者個人より地税として納入するので、連帯責任はない平等性としたが、実際上は地租は金納になったが小作料は物納だったので、小作人の多くはあまりその恩典には浴さなかった。 政府はこの土地制度の改革と税制によって財政の基礎は一応安定させることが出来たが、地税の正確さを期する為には、土地所有権の確認の必要があり、個人の所有地の境界、面積、地目の証明、また私有地、市町村有地、国有地の区分が明らかにされ、それまで農民の生活の補助的な資に利用されていた。 入会地、山林、原野等多くは政府や地主の旧藩主の所有に移った為に農民の生活を圧迫する事態が起ったりしている。 (鹿町でも終戦前までは、田の条件で違いはあったが、小作米(御米)は四割から五割位だったらしい) 年貢米が、金納性になったが、その為の正確さを果すと云う、理由で改めて、人口調査と地押調査(土地台帳)がなされた。 鹿町でも、後で戸長になった、坂本 清太郎(佐々区役所雇)が、明治8年より始め明治19年までかけ、浜野 嶺太郎、棚橋 豊治、松本 平太郎等を任命し、実施調査している。この字図台帳は、明治21年に完了した。今日から見ると問題もあるが、当時近隣の町村のものと比すれば、ずば抜けた出来だといわれた。 |
| 自治権の拡充 |
| 町村制には、その後も大正10年4月、15年6月、昭和4年4月と幾度か改正が加えられ、公民権の拡張、自治権の充実へと漸進を続けたのであるが、特に大正15年(西暦1926年)6月の改正で従来の強い制限選挙が改められて、男子の普通選挙制度が確立された。 現在のような男女同権などということは、当時としては、夢想だもしなかったところで、男子だけの普通選挙でさえも、これが現実には相当な年月を必要とし、且つ幾多の障害があったが、それがここに実現をみて25歳以上の男子が原則として選挙を通じて政治に参与できることになった時は、「大家さんも一票、おいらも一票」と長屋住いの日雇人夫が飛び上って喜んだというエピソードを生んだほど、まことに飛躍的なうれしい改正で、わが国自治行政史上、選挙制度史上まさに特筆に値することだったといえよう。 かくして年を経るに従い、府県、市町村の基礎が強固となった反面、中間機関としての郡役所の存在理由も影薄くなったので、郡制は大正15年7月に廃庁となった。 |
| 鹿町も年を追って発展 |
| 地方自治制度は、このように数次にわたる改正によって拡充強化されたが、一方鹿町もまた、大規模の炭坑が興って人口は年と共に増加し、村会を構成する議員の数も、大正10年4月の選挙では従来の12名が18名に、更に昭和8年4月には24名にと増員され、県下では押しも押されもしない大きな村へと成長していった。 昭和13年は、欽定憲法の名で呼ばれた旧大日本帝国憲法発布50周年祝賀式典、自治制発布50周年記念式典が、夫々2月11日の紀元節、4月17日の自治制創定の日を選んで、いずれも東京で盛大に挙行され、国民あげてわが国の興隆を祈念し、自治の発展を祝福したのであったが、当時の村長末武 弥惣左エ門氏も全村長を代表して、自治制記念式に参列の光栄に浴した。 又本町では同年5月21日、歌浦小学校で記念式を挙げて村の発展を寿いだ。 |
| 太平洋戦争のころ |
| 前後9ヶ年にわたる大動乱下の国民の苦難は、全国共通のことであったが、さて当時の町村の末端行政は、どんな状態に置かれていたのであろうか。 昭和13年4月、国家総動員法という未だかってなかった強力な法律が公布実施され、これに基いて国民徴用令その他幾多の勅令が発せられて、勝たんがためにすべてのものが戦争一本に集中され、国家の強い統制下に置かれたのである。 |
| 自治体としての町村の機能薄らぐ |
| この戦争半ばまでは、地方行政は自治権拡充の方向をたどっていたのであるが、一度、戦争がわが国に不利な状態に追い込まれるや、たちまち逆転の方向に向った。 昭和18年3月町村制が改正され、町村長の任免には中央官庁の権限が及んだが、一方町村会の権限は縮少されて、町村長に広い統轄権を与え、町村の下部組織として、内務省令を以って整備された町内会、部落会に対する指示権を認め、また国家事務の町村長への委任を容易にするなど、自治体としての町村の機能は全く影が薄らぐに至った。今ここに二、三の例を示して戦争下の町村行政が住民の自治から国家の統制の方向へ向っていたことを明らかにしよう。 |
| 其の一、 | 村の予算案は、村会に付議する前に、県に提出して内協議をしなければならなかった。内協議された予算案が村会で甚だしく修正されるような場合は、即時、県と再協議するように指導されていた。 |
| 其の二、 | 村会議員の選挙に当たっては、村を単位として村長の指名する何人かの選考委員の会で議員候補者を選考推薦し、これを中心に一般選挙人で選挙した。この選考委員会で推薦された者でなければ選挙することはできないというのではなかったが、このお膳立てに対して一般選挙民は大体において従順だった。 |
| 其の三、 | 町村制の規定により、昭和18年9月本村行政の総合的な運営をはかるという名目で、村長の諮問機関として、村会議員代表、産業経済団体代表、その他各種団体代表、学識経験者九人からなる参与が設置されたことも、当時のねらいは戦争一本に結集することにあったといえよう。 |
| 戦後の発展
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| 鹿町村から鹿町町へ |
| 主権在民の民主的な新しい日本国憲法、徹底的な民主化をねらいとした改正町村制、 この二つが共に昭和22年5月3日、揃って施行されたことは前途したところであるが、我々もまた、郷土再建に力強い出発をした。
当時、鹿町の戸数は、約三千三百七十、人口一万七千二百余、鉱産を主とする町の年間総生産高は、約7,100万円、日鉄鉱業、野上東亜鉱業、井華鉱業、麓鉱業などの経営する幾多の炭坑を有し、国内他に比をみない強粘結炭の年産28万トンに及び、商工業の発展、交通運輸の便これに伴い、将来への飛躍いよいよ期して待つべきものがあった。そしてもはや私たちの「鹿町村」は「鹿町町」と呼ばなければならない時期が来ていた。「村」と呼ぶべくあまりにも鹿町は炭都としての発展を遂げていたからである。 昭和22年10月1日、永年呼び馴れた鹿町村は愈々鹿町町として発足することになった。 10月26日、歌浦小学校でその祝賀式が盛大に行われた。 町民多数、児童・生徒参加の下に式は進められ、みんな揃って今日の盛典を祝し、将来の発展を祈念した。 |
| * 町村の下部組織 − 部落 − について |
| 触町村長格の庄屋が町村の行政事務を処理していたころの下部組織としては朸頭があり、 その下に自治組織の五人組制度がこれを世話し、庄屋の事務に協力してきた、その後下部組織がどのようであったかに触れてみたいと思う。 町役場保存の明治初年の書類を見ると、今でいう部落の単位のものを「触」とよんでいる。 例えば深江触、加勢触というように、封建制度或は官治制度と称される時代の下部組織は主として上意下達から設けられ、下達事項を触れまわることがその役目の大部分であったと解して差支えないものとすれば、何々触とよぶこの「触」は、役所からの通達を触れまわる区域即ち一つの行政区域であったとみるべきであろう。そしてこの触には、明治30年代の書類によれば、触総代、触伍正という役目が出ている。現在部落の世話をする者を部落会長といい、或は役場からの駐在員とした役名の仕事をしていたものと思われる。 |
| 区長・区長代理 |
| 大正14年4月から町村長の補助機関として、区長、区長代理の制度が実施された。概ね部落を単位として区を区画し、その区内の事務について、町村長の事務を補助する仕組みである。
本町では当初次の11区であった。 深江区、北鹿町区、南鹿町区、船の村区、長串区、木場区、褥崎区、加勢区、歌ヶ浦、大屋区、口ノ里区 その後炭坑の発展に伴って大加勢区が加勢区から分離して12区となった。 |
| 戦時中の隣組制度 |
| 町内会、部落会、その下の細胞組織というべき隣組(隣保班)は戦時体制の一環として、全国くまなく設けられたもので、軍事物資の提出、統制物資の配給などの国家の末端事務の処理から、敵機の空襲、焼夷弾攻撃に備えての防空壕堀、避難、消火訓練等々、拳銃を護って、目覚しい活躍をしたものである。
この隣組は、ほぼ10戸から15戸位で組織され、鹿町町では222班を数えた。各戸への周知事項は隣組長が回覧板で向う三軒両隣を次から次へとまわされた(現在も隣保班は生き続け、お馴染の回覧板は活躍している)。 |
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